第3話 晩翠先生が守った一本の松
のりこ様は「るーぷる仙台」がお気に入り♪
エッセイ【るーぷるの車窓から】
第3話 晩翠先生が守った一本の松
るーぷる仙台を青葉通りの「晩翠草堂前」で降りると、ちょうどバス停の反対側に、瓦葺屋根の晩翠草堂(ばんすいそうどう)があります。
昭和のはじめ、詩人で旧制仙台第二高等学校の教師も勤めた土井晩翠(どい ばんすい)が、ここで晩年をすごしました。晩翠先生の詩といえば、滝廉太郎作曲の「荒城の月」は、あまりにも有名。日本を代表する名曲です。
この晩翠先生、敬愛する先輩のために一本の松を守ったことは、市民の記憶から消えつつあります。
その松の木は、晩翠草堂から離れた現在の青葉区台原、東北薬科大の裏手にある、樹齢600年以上のクロマツです。昭和15年の当時、この台原に工場を建設し、一帯の樹木を伐採する計画が持ち上がりました。これを聞いた晩翠先生は、建設を計画した会社に、直談判に訪れたと伝えられます。
事の起こりは、晩翠先生の、明治の文豪・高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)への尊敬に由来します。
樗牛は、山形県鶴岡の出身で、仙台の旧制第二高等学校に入学した後、二度目の転居先で、「かなわぬ恋」の悲しみに出会いました。
若い樗牛にとって、心の痛手は大きいものでした。憂いを癒すべく、台原のあたりを悄然と歩きまわると、この老松の根方で天を仰ぎ、瞑想にふけったといいます。
はたして、晩翠先生の熱心な説得に心動かされた社長は、この松の保護を約束しました。
晩翠先生は、
「いくたびか ここに真昼の夢見たる 高山樗牛 冥想の松」
という歌を詠み、後に記念碑が松の傍らに残されることになりました。
この台原を、蜂章健児は「光の谷」と称して、未来に高い理想を懐いたのです。(「蜂章健児」とは、旧制二高の学生を指す言葉。蜂章は「勤勉」を意味し、校章にも図案化された旧制二高のシンボルでした。)
現在、このクロマツは「瞑想の松」(めいそうのまつ)として、仙台市の保存樹木に指定されています。
念のため。冥想の松は、るーぷる仙台のコースではありません。
地下鉄台原駅の近くに、「瞑想の松」というバス停があり、その名を冠した路線バスが、今も運行されています。
なお、晩翠先生の詠には「冥」の字が使われましたが、現在の地名や市バスの方向幕などは、「瞑」の場合が多いようです。
参考文献:
「仙台の文学散歩」仙台市教育委員会編(昭和40年刊)
仙台市ホームページ
※「雨の降る日は天気が悪い」という土井晩翠の著作にも、高山樗牛のことが書かれています。
(るーぷるエッセイ第3話 おわり)
2009年12月作成
【「冥想の松」へ仙台市営バスで行くには】
仙台駅前・西口バスプール17番乗り場より
「瞑想の松循環」 系統番号159番、259番のバス
(大人片道220円)
※あまり本数は多くありませんが、チャレンジしてみては。