第2話 城下町の中心に伝わる悲話
のりこ様は「るーぷる仙台」がお気に入り♪
エッセイ【るーぷるの車窓から】
第2話 城下町の中心に伝わる悲話
るーぷる仙台は、青葉通りに出ると、「青葉通一番町」「晩翠草堂前」と停車していきます。このあたりは、銀行の本支店などが軒を連ね、仙台のウォール街にも、たとえられます。
かつて、現在の青葉通りが開通する前は、この一筋北側、ちょうど「クリスロード」「マーブルロードおおまち」と続くアーケードのある大町通りのあたりが、東西の目抜き通りとなっていました。
南北に通る奥州街道、つまり現在の国分町通りとの交差点は、「芭蕉の辻」(ばしょうのつじ)と呼ばれた城下町の中心で、藩政時代から経済の中心でした。
「芭蕉の辻」の名の起こりは、高札場(こうさつば)という、昔の領主の法令を書いた木の板札が立っていたため、もともと「札の辻」「辻の角」などと呼ばれていたようですが、“江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公の密偵役を果たした「芭蕉」という人が屋敷を賜った事に由来する”という説が、有力のようです。
ちなみに、俳人の松尾芭蕉とは、関係はありません。
しかし、昔は火災が多く、辻のまわりの立派な建物も、たびたび焼失を繰り返していました。特に、明治23年に起きた火災は、長く市民の涙を誘うこととなりました。
1月14日のことでした。仙台は小正月で、お八幡様(大崎八幡宮)のドント祭では、正月飾りの炊き上げが行われていました。宵に、小間物商「近善」から出火があり、二階にいた子供たちが、火の中に取り残されてしまったのです。9才の男の子と弟2人、2歳の女の子。13才の子守娘も一緒でした。
助けに駆けつけた人々も、ぶ厚い漆喰(しっくい)の壁と、すき間の狭い連子窓(れんじまど)にさえぎられ、手の施しようもありませんでした。火の手が上がる中、泣き叫ぶ声、救いを求め格子の窓から差し出される小さな手に、耳を覆い、目をつぶって、みな泣いたといいます。
この年のお盆に、町内は、残らず切り子提燈をかかげて、5人の冥福を祈ったと伝えられています。
現在の「芭蕉の辻」は、アーケード街などの繁華街からは、少し離れています。ここが城下町・仙台の中心であったことを示す石碑が立てられています。
参考文献:
総務省消防庁「災害伝承情報の公開」、
「仙台あのころこのころ」三原良吉監修、
仙台市ホームページ
(るーぷるエッセイ第2話 おわり)
2009年10月作成
るーぷる仙台は、1日乗車券(大人600円)を買うと、乗り降り自由。便利です。